★ 目覚めの一曲 #20 ★

古事記の読書会がようやく十回目を迎えました。未だ試行錯誤の面も多く、告知無しで読み進めています。今はつくば市内の喫茶店で一人で活動しています。お上りさんの発想で、都内のラウンジだったらどうなる? などと妄想に耽っています。次回は未来の会場下見をするかも知れません。と言う事で、次回は基本的にお休みします。また、ブログや動画サイトなどを参考にする機会があり、其々に解釈や見解があるのが面白く感じています。新釈古事記伝を読み終えたら、また別の「古事記」に挑戦してみたいと思います。

今回は七冊の内、五冊目を読んでいます。新釈古事記伝・第五集「勝佐備(かちさび)」、第六章「あめのまなゐ」を読みました。漢字で表現すると、「天之眞名井」です。場面の説明を致しますと... 天照大御神が須佐之男命の十拳劔(とつかつるぎ)を持ち、「あめのやすかわ」の中にある「あめのまなゐ」にお立ちになります。その場所で「みこうみ」の一大事を行う場面です。また、「ゐ(井)」は井戸ではなく、禊(みそぎ)をなさった淵のことを意味します。「みこうみ」の一大事に関して、『「うけひ」をして「あかきこころ(清明心)」になって「むすび」をする事』と、表現しています。即ち、「うけひもち(受持ち分担)」の実現とあります。

天照大御神は現し国を「生く国」にすること。すべてのものに「ひかり」を与え、「いのち」の目覚めと喜びとを起す。即ち、和御魂の役割。須佐之男命は"もの""こと"の上に「足る国」にすること。即ち、荒御魂の役割。和御魂や荒御魂は日本古来の「一霊四魂」の概念で、私自身は近年耳にする位の言葉でした。行動心理学やメタ認知の方がなじみがありました。

言葉を調べて行く過程で不思議な感覚を覚えました。西洋社会で発達した概念が、1300年前の日本ではごく当たり前のことだったのです。詳しい解説は哲学者である出口光氏のコラムを参考にしました。

参照:

出口光氏

http://terakoyajuku.jp/s88/003.html

http://terakoyajuku.jp/s88/004.html

さて、本題に戻ります。「うけひもち(受持ち分担)」の実現に最も必要なものが須佐之男命自身の「手」と説明されています。「うけひ」をした以上、須佐之男命はその手足の上に「ひかり」を現わす必要があります。手を動かして田や家を作ることを教えなければなりません。「手」が大切なのは... 人々に"もの""こと"の成り立ちを知らせ、たより(手寄、頼)ある生活ができるように努めなければならないからです。

「腰に佩(は)いている十拳劔(とつかのつるぎ)」

須佐之男命にとって、十拳劔(とつかつるぎ)は「手」と同じ役割をする"もの"。また、人格を現す"もの"。まいのぼり(参上)するまでは、殺太刀の性格を帯びていた十拳劔。対して、生太刀(いくたち)、特性を生かす剣に変化していなければなりません。剣即ち太刀。人の立ち所を明らかにし、田畑を作り、家を作り、素直な質(たち、性質)の実現をする役目を果たさなければならない。天照大御神が十拳劔と共に「あめのやすかわ」の中にある「あめのまなゐ」で「みこうみ」、即ち禊(みそぎ)を行います。この剣の上に起きる"変化"が須佐之男命自身の生まれ変わりになる必要がありました。

「真名(まな)と仮名(かんな)の違い。」

「安河」、即ち「国・村・家」は具体的な姿を持って存在しています。その名が背負うところの実態と一つになることが「安河」と一つになること。更に、その実態、肝心要の急所が「まなゐ(真名井)」。「仮名」とは、その真逆を意味するものです。『「仮名」の形さえ整えばそれでことが成ったような風潮がある。』著者は現代社会に対して苦言を呈しています。

さて、今朝の目覚めの一曲は...

Benny Golson -

Yesterdays

https://youtu.be/J8Ke5KcTBNk